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​満願密寺について


※海印 (1716-1801)。
霊台山満願寺 (現在の満願寺)
真言宗仁和寺末。 本尊千手観音。

創建は神亀年間 ( 724-729) と伝えられる。

もとは、安芸国吉田 (現広島県高田郡吉田町) にあった

天台宗 阿弥陀院。毛利元就 (1497-1571)の時代に真言宗

に改宗、毛利家の祈願所となる。天正年中 (1573-1592) に、

仁和寺仁助法親王 (厳島御室、伏見殿貞 敦親王第四子、

大学五年七月三日生~天正一二年一一月二九日没) が安芸の

厳島神社参詣の折に、 満願寺住職玄仙が待し、爾来満願寺

住職は代々仁和寺の門弟となる。

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【満願密寺の伝来について】

伝法山満願寺 (萩市大字堀内に跡 )

指月山 (しづきさん) 東麓、 萩城二の丸内。 南に東園。 北に宮崎八幡宮跡。東に道を隔てて三摩地院跡。

慶長10年 (1605) 萩に移建以後、防長両国の惣触頭となり、 末寺八十一ヶ寺を擁した。 仁和寺内の一院を兼務したことにより、 仁和寺別院となる。

天和二年(1682) 平安古 (ひやこ) から出火した火災により類焼 (萩古実未定之覚)、 後に再興。

天保年間(1830-1844)の「八江名所図画」 は、境内に不動明王を安置する護摩堂や、鎮守社のニノ丸天満宮を記す。

寺禄は幕末 「嘉永改正いろは寄萩藩分限帳」に「高四百七拾八石八斗六升七合、京都仁和寺末 御城內満願寺 內四拾石 金剛院外分知弐拾七石五斗三地院弐拾七石五斗 一乗院」とある。

神仏分離により境内の二の丸神社・指月権現社・清滝権現社は、明治二年(1869) 山口藩から取り除きを命じられ、大正元年(1912) 防府に移り末 寺の霊台寺を合併して霊台山満願寺となった。

金剛院に仁和寺西院流へ結 (諸尊法類聚) が伝来するのは満願寺が西院末であった関係か。

※毛利十一代史 英雲公※広島県史 芸吉田阿弥陀院地史‧地名辞典芸州福王寺中世以来郡内真言宗寺院の総元締

ご挨拶

当山は真言宗御室派(おむろは)に属し、総本山仁和寺の末寺でございます。

現在の防府の地に来てまだ100年少々の新参者です。

元々は毛利家の祈願寺でしたので、毛利本家が防府に移転に伴い満願寺末寺の霊台寺に満願寺として参りました。その時霊台寺と防府天満宮に有った満福密寺を統括して現在に至ります。それ以降 山号を伝法山を霊台山に、寺名を満願寺を満願密寺としました。(法人名は満願寺)

防府に来るまでは檀家が無く満願密寺となって現在の様(供養、祈願両方をする)になりました。

このホームページを通じて仏教の概念を、真言宗の教えを、多く方と勉強出来たら良いな。と思っています。

 

合掌

御本尊(千手観音)

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千手観音

関ヶ原の合戦以降、毛利家が広島から萩へ移転する際、満願寺もそれに伴って移転しましたが、本尊千手観音(国宝)様がこの場所を動きたくないとお告げをされたとの説があり、本尊様は現在も広島県吉田町の清住寺に安置されている。

​現在の千手観音様はもともとのお姿を模写したものを萩でも安置し、明治維新の後に防府へ移転の際一緒に移転され現在に至る。

【萩城下町絵図】
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【写真をクリックすると拡大できます】

江戸時代

境内

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