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一言法話
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一言法話:第五十三話
令和八年五月二十日宮島弥山にある消えずの火を守る霊火堂宇が火災になり建物が消失してしまいました。 このお堂は今から約二十年前の平成十七年五月五日に初代霊火堂が火災で焼失して翌年再建されました。 丁度その頃私は大本山大聖院の職員でした。 二十年経った今でもいろいろ覚えています。 昔から怖いものとして例えられる「地震、雷、火事 ・・・」どれも本当に怖くまた被災してしまうと復興が本当に大変です。 大変な思いをして再建したとしてもそれで終わりではなく、そこからが始まりです。 護持することは地味ですが簡単なことではないです。 また当山で使用する諷誦文(ふじゅもん)では 「およそ始まりがあれば終わり有るは世の理なり」 と謳われています。 形あるものはいずれ無くなります。 悲しいことではありますが、無くなれば終わり、ということではなく凄く大変なことではありますがまた始めれば良いのです。 それをどのように進めていくかは経験と考えを使えば良いのです。 言うのは簡単ですが、進めるのは大変です。 それでも、朝に希望を持ち夕には感謝すれば、自ずと進む道があるのではないで
6月1日


一言法話:第五十二話
私の父であり当山の先代は昭和六年生まれで戦前生まれであり戦中戦後を生きた人間なので私が子供の頃色々躾?と言うかいろいろ言われました。 例えば箸の持ち方、人前での食べ方、なるべく好き嫌いを言わないなど。 今思うと食べる事が多いと感じます。 この歳になると食べるという行為は人間性が出るからだと思います。 子供の時母から「父さんは何でも食べるのよ」と言われ見習えと教えられました。 まぁこれは大人になれば単に母が父の嫌いなものを家に置いていなかったのだと分かりますが。 人間なので好き嫌いは本来当たり前で逆に人間らしいとも言えます。 これは食べ物の話だけではなく様々な事がそうです。 特に難しいのが人間関係だと思います。 先日ある檀家さんから電話をもらいました。 以前から対応に気を付けないといけない方でしたので一番良いと思われる対応をしてきたつもりでしたが、先方にはなかなか私の思いは伝わっていないと感じられることもあり、私なりに配慮をして対応してきたつもりでした。 そんなある日、電話を頂きましたが対応出来ず留守電になり留守電のメッセージに録音されていました。
5月5日


一言法話:第五十一話
これを綴っている頃は外では桜が満開に近い頃です。 歳を重ねるごとに花の美しさが気になります。 「念ずれば花開く」という言葉がありますが、念じずとも毎年綺麗に咲いてくれる花達には感謝しかありません。 真言宗では求めないと得ること出来ないと考え「煩悩即菩提」なんて事もいいます。 今年の二月の後半に本堂と観音堂に泥棒が入りました。 被害金額が大したことがなかったのは不幸中の幸いでしたが、本堂のガラス戸は壊され、観音堂はコンクリートの基礎で作った賽銭箱が基礎の部分から破壊されてた上にひっくり返してあり結構大変な復旧になりました。 実質的な被害金額よりも修理費の方が高くなり心も懐も痛かったです。 少し事件の事をお話すると今回の事件は市を跨いで広域になり、また近所の神社仏閣、民家含めてこの辺りだけでも十件位になり、うち以外ではガラス割られたり壊滅的に破壊されたりでした。 そんな中ウチの防犯カメラにしっかり犯人(本人認めている)が映っていました。 これを読んでいる方で防犯カメラの取り付けがまだな方がいらっしゃるなら是非取り付けてください。 事件から約ひと月後に
4月1日


一言法話:第五十話
私は本を読みません(なんの告白でしょうか)。 なので、作家さんや有名な著書もほとんど存じ上げません。ま た漫画も読まないので、超有名作品であっても、一昔前のものなら名前を聞いたことがある程度です。 よく驚かれるのが「漫画を読まないこと」と「お酒を飲まないこと」です。 「めちゃくちゃ飲みそうな顔をしているのに」と言われます。 私としては、顔で判断?と思ってしまいますが。 何が言いたいかというと、売れる作家さんというのはやはりセンスがある、ということです。 幼少期に見ていたテレビ番組の登場人物で、一番好きだったのが「宇門大介」。 変身すると「デューク・フリード」。子ども心に、なんてカッコいいんだろうと感じていました。 大人になって響きがいいなと思うのは、「一文字隼人」や「緋村剣心」などです。 名前の響きだけで、なにか凄みを感じさせます。 「山口太郎」や「すずきのりすけ」も悪くはありませんが、やはり響きという点では少し物足りなさを感じてしまいます。 やはり売れる方はセンスがあり、昔から言われ続けている言葉というのは、人の心に響き、人として大切な道を示し
3月2日


一言法話:第四十九話
最近事あるごとに感じる気づきについて綴りたいと思います。 読まれた方のなかには 「それは単にあなたが歳を取ったからでは?」 と思われる方もおられるかもしれません独り言だと思って読んでいただけると幸いです。 それはどんな事かと申しますと、人々行動や思考の中心が「何を得るか」という点に偏ってきているのではないか、ということです。 人が人である以上、何かを求めるということは当然ですが、ここ数十年の傾向としてその「得るもの」は楽しいのか、形があるモノか、お徳なのか。 に比重が置かれ過ぎているように感じます。 仕事柄かもしれませんが、特に信仰についてそれを顕著に感じます。 故人とのお別れもとにかく質素にという傾向が強く、経済的に質素にしか出来ないという方だけでなく、そうではない方までも質素にされている傾向が強いように感じます。 お隣の天満宮さんの行事を拝見していても昔ながらの信仰行事の参加者は減少している様に見えますが、自分が面白いと感じる楽しいレクリエーション的なものには多くの方が参加されています。 立場的に多くの方を呼び信仰に繋げていきたいという思いは
2月1日


一言法話:第四十八話
令和八年は丙午です。 丙と馬が重なるのは六十年に一度。 すなわち前回は昭和四十一年です。 拙僧は一つ下になるので数え歳では還暦で、まん年齢では五十台最後の年になります。 私たちの世代は現代とは違い割と子供が多い世代です。 私ら世代の親の世代は戦前戦中戦後直ぐです。 なので昔ながらの風習は今より多く残っていました。 そんな事で一つ上にあたる世代は私たちより少なかったです。 どんどん少子化は進んでいるので来年は「輪をかけて」とはならないと思いますが残念ながら増える事はないとおまいます。 今も昔も「今の若者は」と言われ続けております。 私が「今の若者は」と言う世代になりました。 現に同世代の人と「平成うまれは」と会話することありますが、しかし、これは世代より個人の問題で若くてもしっかり責任をもって行動しいてる人も多く私の先輩世代でも「どうなっている?」って方も多く身体的に老化するのは仕方ないですが、考え行動は若者の手本になる。 という気持ちでいて欲しいものです。 先般も宅配業者から電話あって「午前中の配達が無理ですすみません。何時なら大丈夫ですか?」と
1月1日
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